亀山城(沼城)を攻略しました

亀山城(沼城)は、現在の岡山市東区沼にあった城で、戦国時代に中山備中守信正によって築城され、岡山城(石山城)に移り住む前の宇喜多直家が14年間居城して戦国大名として勢力を伸ばしていく根拠地となった城だそうです。

城は、国道250号線の「岡山市沼」の信号の交差点を北に分岐して200mほどのところにある「岡山市立浮田小学校」の北東に位置する小山に築かれていました。

城の本丸、二の丸のあった弁天山が亀の形に似ているところから「亀山城」と名づけられたと伝えられ、別名「沼城」ともいわれます。

亀山城本丸跡は向こうの小山にあります

亀山城本丸跡は向こうの小山にあります

左の写真は、浮田小学校の東側から城址のある東方向を撮影したものです。この写真の奥に見える低い山が亀山城跡です。

亀山城は、さして高い山に築かれたわけではないものの、「沼城」の別名の通り、往時は、周囲を沼に囲まれた堅固な城だったのでしょう。

駐車場はないので、この写真に写っている道の少し広くなっているところの路肩に駐車して、そこから歩いて行きました。

本丸跡へ昇る石段

本丸跡へ昇る石段

亀山城跡への昇り口から城跡へ昇る石段にも、本丸跡にも「兒」という文字が二つ染め抜かれた幟が立てられていました。宇喜多家の家紋の文字のようです。

本丸跡

本丸跡

石段を2~3分歩いて上った本丸跡は、神社の境内のような趣がありましたが、城址碑や説明板なども設置してありました。

後に小早川秀秋によって岡山城に大納戸櫓として移築されたという三層の天守はここにあったのでしょうか。

本丸跡にあった説明板に、亀山城をめぐる興味深い物語が書かれていたので紹介します。

亀山城《沼城》物語

 永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀反の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然とする。
 中山備中守は、妻奈美の実の父である。自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受ける。

 直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駆けらせて山野に入り、鹿や猪を追う狩猟の日々が多くなった。亀山城近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も重なった。

 永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので泊りがけで遊びに来られたいと、中山備中守より招待を受けた。
 酒宴もようやく終わりに近づき中山備中守が酔って寝所へ入ろうとした時、やにわに抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に鬨の声を挙げて城中に乱入し亀山城を制した。

 実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害した。
 戦国時代は弱肉強食の時代である。直家は、主君浦上宗景より亀山城を賜り新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城とした。

 永禄9年(1566)備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って亀山城へ嫁いで来た。ときに直家38歳の早春である。歳月は7年を経て、天正元年正月14日、城中で玉のような男の子が生まれた。

 直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄することを神に祈った。
 後の備前・美作57万4千石の大、大名そして豊臣家の五大老と破格の出世をし関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多中納言秀家の誕生である。
 そしてこの年の秋、直家父子は岡山城へ移るのである。

 天正10年(1582)6月4日、備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。
 梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。東の空に朝日が輝いたのは8日だった。

 秀吉の突進が始まる。亀山城から姫路まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。
 天正10年6月13日、亡君織田信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。

本丸跡にある案内板(亀山城跡)

本丸跡にある案内板(亀山城跡)

赦免花伝説の蘇鉄

赦免花伝説の蘇鉄

本丸跡に蘇鉄があり、傍に「赦免花伝説」の説明板が立てられていました。
それによると、

関ヶ原の戦いに敗れ八丈島へ流された秀家公の菩提寺宗福寺に二株の蘇鉄があって、その蘇鉄の花が咲いた時、なぜか赦免があって、文政年間に69人、天保年間に41人、弘化年間に64人、嘉永年間に24人の流人が赦免されたのだとか。

しかし、宇喜多一族には何の沙汰もなく、明治になって罪がゆるされたのだそうです。

本丸跡に立つ石碑

本丸跡に立つ石碑

本丸跡に、右の写真のような石碑がありました。

左側には「直家飛躍の地」とあり、中央下の球体には「秀家生誕地」と記され、右の石碑には「亀山城跡」と刻銘されていました。

本丸跡の北側

本丸跡の北側

北側の一段高い所に弁天神社が祀られていました。往時は櫓が建てられていたのでしょうか。(案内板の「亀山城城郭図」参照)


こぼれ話~~絶世の美女・お福~~

お福は、絶世の美女だったので、そのうわさは美作高田城主の三浦貞勝の耳にも届き、貞勝はお福を娶る(1559年頃)幸運に恵まれて嫡子もできています。

しかし、戦国の世、やがて高田城は、三村家親に攻められ(1565年)落城し、貞勝は自刃しました。(一説には、お福は嫡子の桃寿丸を連れて備前沼城の城下へ落ちのびたといいます)

しかし、どこにいても超美女は目立つもので、若き(このときのお福は23歳くらい?)美貌の子連れ未亡人はすぐに沼城主の宇喜多直家に召し出され、お福を一目見るなりメロメロになった直家の側室(寵愛を受けて正室と同じ待遇だった?)におさまることとなりました。

そして1572年には、直家とお福の間に、八郎(後の秀家)が誕生しました。(この年の秋、岡山城へ移っています)

数年後、西から毛利、東から織田の圧力が宇喜多へ加わったとき、直家は織田側(直接には秀吉)に与する決断をして、八郎を人質に出しています。

直家は、1581年の末頃に岡山城で病死していますが、この頃に、秀吉がお福をモノにした(後に側室にした)と考えられます。・・・なにせ、あの好色家の秀吉のことですから、絶世の美女のお福に手を出さないはずは無いでしょう。お福にしても、「実力者の秀吉を虜にすることで我が子と宇喜多家の安泰を図りたい」という気持ちがあったでしょう。秀吉が無理やり押し倒したのか、お福が誘ったのか・・・・

後に秀家が豊臣政権下で破格の出世(57万4千石の大大名となったばかりか、秀吉の養女豪姫〔前田利家の娘〕を娶って、完全に豊臣一族となることができ、若くして五大老にまでなった)をすることができたことが頷けるというものです。

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