乙子城を攻略しました

乙子城(おとごじょう)は、後に備前・美作一帯を支配することとなる宇喜多直家が城主としての第一歩を踏み出した城として知られる連郭式の小型山城で、現在の岡山市東区乙子にその城跡があります。

登り口~本丸跡

乙子山と登り口(北西側)

乙子山と登り口(北西側)
遊歩道

遊歩道

当時は東側の二の丸(乙子大明神)の側から登城していたのかも知れませんが、北西側の登り口付近の路傍に車を置いて、上の写真の鳥居のところから遊歩道を登りました。

乙子山は”丘陵”程度の低い山なので、頂上の本丸跡まで難なく登ることができました。

本丸跡

本丸跡
本丸跡からの眺望(北西側)

本丸跡からの眺望(北西側)

本丸跡は、ほどほどの広さがあり、「当時はさぞ見晴らしがよかっただろう」と思われる場所でした。そこに説明板が設置してあり、戦国時代の乙子城周辺図邑久郡乙子城古図とともに乙子城の説明が書いてありました。

本丸跡の説明板より

戦国時代の乙子城周辺図

戦国時代の乙子城周辺図
乙子城

宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。

乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に拡がる児島湾を隔てて、児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。

邑久郡乙子城古図

邑久郡乙子城古図

戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文13年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽30人をつけて直家に守らせた。

邑久郡乙子城古図によると、城は本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。
郭は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡が見られる。

曲輪跡~二の丸跡

本丸跡下の腰曲輪跡

本丸跡下の腰曲輪跡
たぶん曲輪跡

たぶん曲輪跡
たぶん曲輪跡

たぶん曲輪跡

島村豊後守に砥石城を奇襲されて以来不遇の幼少期を余儀なくされた直家にとって、小規模ながらも一城を任されたことは大きな喜びであったことでしょう。

このとき、没落していた宇喜多家の再興が成ったということで、各地に散っていた旧臣も直家のもとに集まったといいます。しかし、家臣の人数の割に知行が少ないため困窮を極め、家臣と共に耕作に励み、ときには自ら節食して兵糧を蓄えたという逸話が残っているそうです。

二の丸跡下の曲輪跡

二の丸跡下の曲輪跡
二の丸跡(乙子大明神)

二の丸跡(乙子大明神境内)
当時の登城道?

当時の登城道かも?

宇喜多直家国とり物語(麓にある石碑の碑文)

 「備前軍記」等の近世編纂物に描かれる直家は、享禄2年(1529)に宇喜多興家の嫡子として生まれ、幼名を八郎、元服して三郎左衛門直家、後に和泉守と名乗る。

祖父能家は、天文3年(1534)に、砥石城(邑久町豊原)において、高取山城(邑久町東谷)の島村豊後守(後の貫阿弥)の奇襲にあって自害し、このとき難を逃れた興家、八郎の父子は、備前福岡(長船町福岡)の豪商阿部善定の元へ身を寄せた。

天文5年(1536)の興家病没後、八郎は、叔母のいた笠加村(邑久町)の尼寺で育てられ、不遇の幼少期を過ごしたと伝えられている。

宇喜多直家の石碑

乙子山の麓(北側)には「宇喜多直家 国とりはじまりの地」の石碑がありました

天文12年(1543)、八郎は、母の努力によって旧主浦上宗景に仕官し、翌年、元服して三郎左衛門直家と名乗り、初陣以来の武功や祖父能家の旧功により、乙子城(岡山市乙子)と三百貫の知行、足軽30人を給った。

天文18年(1549)、直家は、祖父能家ゆかりの砥石城を主命によって攻め、浮田大和を討ち、その功績によって新庄山城(奈良部城ともいう、岡山市竹原)を預けられた。

永禄2年(1559)には、かねて謀反の風聞のあった亀山城(沼城ともいう、岡山市沼)の中山信正、それに祖父の仇でもある島村豊後守を討ち、その所領の過半を加増され、亀山城を居城とした。

以後、直家は浦上宗景の指図を待たず、周囲の周囲の諸城を攻め落とし、次第に主家を凌駕するほどの権勢を備え、宗景と不和になっていった。

勢力拡大を続ける直家は、松山城(高梁市内山下)にあった備中の雄、三村家親と抗争を構え、永禄9年(1566)、美作に進入した家親を計略により興禅寺(久米南町下籾、現在廃寺)で殺害した。

翌年、親の復讐を誓う三村元親が備前に侵攻、二万の大軍を三手に分けて攻め入ったが、直家は五千の少数で迎え撃った(明禅寺合戦)。
この合戦は直家にとって生涯で最も華々しい勝ち戦となり、備中勢の「明禅寺崩れ」として長く人々に語り伝えられた。

元亀元年(1570)、直家は、岡山の金光宗高を自害させ城を奪い、岡山城(現在の岡山城ではなく石山の地にあったという)を大改造し、天正元年(1573)には、亀山城から移って、家臣や福岡、西大寺、児島等の商人を移住させ、城下町の礎を築いた(岡山開府)。

そして、天正5年(1577)、浦上宗景を天神山城から追放し、ついに備前、美作一帯を統一して戦国大名となった。

やがて、織田信長の中国路攻略の命を受けた羽柴秀吉が播磨に進出してくると、初め直家は安芸に根拠地を持つ毛利氏とともに抵抗したが、天正7年(1579)には、織田氏と和睦し毛利氏と対立した。

直家は、天正9年(1581)に病没(享年53歳)し、後世に烏城と呼ばれる天守閣(戦災で焼失)を中心とした岡山城の築城は、豊臣政権下で五大老に列せられた嫡男の秀家に委ねられることになる。

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