新庄山城を攻略しました

新庄山城は、別名を奈良部城といい、現在の岡山市東区竹原にその城跡があります。
この城は、亀山城中山備中守信正の臣新庄助之進の居城だったということですが、何より、稀代の梟雄宇喜多直家(後の岡山城主)ゆかりの城として興味をそそられました。

登り口

新庄山の北側登り口

新庄山の北側登り口

上道公園の近くに駐車して、新庄山の北側登り口のところに行くと、そこに「新庄山城跡」の石碑や説明板がありました。(さらにハイキングコースの案内図などもあり、山頂の新庄山城跡も史跡ゾーンとしてそのハイキングコースに含まれているようでした。)

登城道

登城道

登城道
登城道(躑躅の小径付近)

登城道(躑躅の小径付近)

北側登り口からの道は、新庄山城の登城道だったといわれる道で、急坂ながら路面がしっかりしていて歩きやすい道でした。

途中になだらかでやや広くなっている場所があって、「もしかしたら、当時はこの場所に出丸とか砦とかが築かれていたのかも知れない」とか思いました。 (そこには躑躅の木がたくさんあり、「躑躅の小径」という表示がありました。花の時季だとさぞ美しいことでしょう。)

本丸跡付近~展望台

本丸跡に建つ石鉄神社

本丸跡に建つ石鉄神社

「躑躅の小径」の場所を過ぎるとまた急坂になりましたが、ほどなく頂上の新庄山城の本丸跡(標高約124m・比高約113m)に到着しました。

現在、そこには新庄助之進と伊予前神寺の分霊を祀るという石鉄神社が建っていて、「新庄山城 宇喜多直家ゆかりの城」の標柱や説明板が立てかけてありました。

しかし・・・標柱は朽ちかけているし、説明板の文字は消えかけているという有様で、同じ宇喜多直家ゆかりの城でも、新庄山城に対する扱いは亀山城(沼城)とは大違いだと思いました。

標柱と説明板

標柱と説明板
本丸跡からの眺め

本丸跡からの眺め
本丸跡南側の場所

本丸跡南側の場所
遊歩道

遊歩道

本丸跡の南側には何段かのやや広い場所があり、そこを通り抜けるように遊歩道が通っていました。

新庄山城は連郭式の山城ということなので、何段かのやや広い場所にはそれぞれ曲輪などがあったのでしょう。

「それらしい遺構が残っているかな?」と辺りを歩いてみましたが、残念ながらはっきりとした郭の跡も堀切の跡も確認することができませんでした。 遊歩道を整備するときに遺構が壊れてしまったのかも知れません。

展望台

展望台
標展望台から見た新庄山

展望台から見た新庄山

遊歩道は本丸跡の南側から三徳園(岡山県立青少年農林文化センター)へ続いているようだったので、そちらを通って駐車した場所に戻ることにしました。その途中、新庄山城の出丸があったかも知れないという場所に展望台があって、そこから新庄山を見ることができました。


~~宇喜多直家と新庄山城~~

天文18年(1549年)当時乙子城主になっていた宇喜多直家は、砥石城浮田大和守(直家の祖父能家の異母弟)が主君浦上宗景に背いて備中の三村家親に通じたとし、宗景の軍勢と協力して砥石城を攻め、大和守を敗死させました。

直家は、このときの恩賞として宗景から奈良部に領地を得て新庄山城を賜わり、乙子城は弟の忠家に任せてここに移ってきました。

そして、天文20年(1551年)には中山備中守の娘を嫁にし、平穏な月日を過ごすうちに2人の娘をさずかり、舅の備中守もそうした娘婿を実の息子のように可愛がっていたといいます。

ところが、永禄2年(1559年)正月、宗景は、中山備中守と砥石城主になっていた島村豊後守に謀反の疑いがあるとして、2人の誅罰を直家に命じたのでした。

(中山備中守は直家の妻の実父でしたが、主君宗景からの命を断ると自分も謀反の疑いをかけられ宗景に殺されてしまう危険があり、やむを得ず誅罰を引き受けたのでしょう。島村豊後守は直家の仇敵なので、躊躇なく誅罰を引き受けたことでしょう。)

そして永禄2年の晩秋、直家は機会を得て2人を謀殺しました。このとき、実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、2人の女児を残して自害したといいます。

ともかく、主命を果たした直家は、その功によって亀山城(沼城)を賜り、10年ほどを過ごした新庄山城から亀山城に移っていきました。

その後、新庄山城は家臣に守らせていましたが、直家が石山城(後の岡山城)主となったときに廃城となりました。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土するそうです。

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